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落ち込みのワケ

私の場合精神的な落ち込みと完全に手を切ることはできないようだ。
ずっと調子が良くて、落ち込むことなどもうない、と思うこともある。私は落ち込まない考え方を身に着けた、だからこういう考え方でいけば、絶対大丈夫だ、私は落ち込みとは手を切った、などと思ったこともあった。でも、残念ながら今このように気分が低調なことを考えれば、それは錯覚だったと結論せずにはいられない。

信仰を持てば、落ち込まない人間になる。そういいたいところだが、そうではない。自分は結局どこまで行っても自分で、宗旨替えをしたぐらいで人間性が全く変わってしまうということはない。

もちろん、神を信じてそれまでの悪の道を捨てて、まっとうな生き方をするようになったり、どうしても抜けられなかった中毒から解放される人もいる。私も多分、信仰を持って変わったところが全くないというわけではないと思う。でも、こと落ち込みに関しては、自分でも予期していないようなときに足元をすくわれるというのが現実だ。

そして、その背景にあるのは、人間不信。
たとえクリスチャンが増えたとしても、結局は誰もが自分勝手な正義を振り回してお互いを苦しみ合うという社会の構造は変わらないのではないか、信仰を振りかざしたところで、どれは〇〇主義、という大義名分と変わらず、目先の体制は変わっても結局何も変わらないのではないか、そんな風に思えてきて、信仰を持つことの意義が見えなくなってしまう。


一世を風靡したマルクス主義は、革命によってすべての悪が一掃されて理想郷が訪れると説いた。
でも、共産主義は理想郷を作るどころか、それとは似ても似つかない国家を生み出して終わってしまった。
イスラム過激派は、イスラム教徒が世界を支配すれば、世界平和と幸せな世の中が訪れると主張している。しかし、どう考えても、イスラム独裁国家が幸せをもたらすとは考えられない。

0517.jpgでは、キリスト教はどうなのか?
クリスチャンが多くなれば、いわゆる信仰復興が起これば、悪は追放され、神の支配が訪れて理想的社会が建設されるのか?

猪瀬知事は、イスラム教徒はアラーを信じることでは一致しているが、それ以外では喧嘩ばかりしているなどと言う知事としては甚だ不適切な発言をしてしまったが、これはイスラム教徒たちほど派手ではなくても、キリスト教についてもいえることではないのだろうか?

信仰の意味は何なんだろう?

クリスチャンが増えて、キリスト教的価値観が社会にあふれ、社会が変わることを信じることが信仰だと思っているから、こんなにも気分が悪くなってしまうのだろうか?
タグ: 信仰 政治
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