自分の立ち位置
今日行こうかどうか迷った挙句教会に行った。教会に行く気が起こらなかったのは、今日持ち寄り食事会があったからだ。今までなら別に適当なものを持っていってお茶を濁すことは別に苦痛じゃなかった。でも、なぜかそれすら非常に面倒に感じてしまったのだ。
これと言って話すこともない人たちと大して意味のない話をすることを想像すると、それはそれで気分がそがれる。
でも、無理をして出かけたのは、来週ようがあっていくことができないのがわかっていたためだ。
クリスチャン生活が教会の出席率で採点できるものではないと思いつつも、この教会でも自分の居場所を確保できないことになんともいえない引け目を感じてしまう。
ここで引いたら負け、みたいな感じがして、そういう自分を何とかしたくて出かけたわけだ。
でも、結果から言えば、やはりなんとも中途半端な気分を引きずって家に帰ることになった。
食事自体はおいしかったし、適当にほかの信者といろいろな話ができて楽しかったんだけど、終わった後の引き際がわからない。
片づけをしている人たちは十分いる。それ以外にワイワイやっている人たちもたくさんいる。
でも、どこに自分がいるべきなのかワカラナイ。
と言うわけで、がやがややっている人々を尻目に引き上げてきてしまった。
最後まで残って付き合っていなくちゃいけないわけでもないからたぶんそれは悪いことだと言うわけではないはずだけど
ともかく後味がいいとはとてもいえない。
これと言って話すこともない人たちと大して意味のない話をすることを想像すると、それはそれで気分がそがれる。
でも、無理をして出かけたのは、来週ようがあっていくことができないのがわかっていたためだ。
クリスチャン生活が教会の出席率で採点できるものではないと思いつつも、この教会でも自分の居場所を確保できないことになんともいえない引け目を感じてしまう。
ここで引いたら負け、みたいな感じがして、そういう自分を何とかしたくて出かけたわけだ。
でも、結果から言えば、やはりなんとも中途半端な気分を引きずって家に帰ることになった。
食事自体はおいしかったし、適当にほかの信者といろいろな話ができて楽しかったんだけど、終わった後の引き際がわからない。
片づけをしている人たちは十分いる。それ以外にワイワイやっている人たちもたくさんいる。
でも、どこに自分がいるべきなのかワカラナイ。
と言うわけで、がやがややっている人々を尻目に引き上げてきてしまった。
最後まで残って付き合っていなくちゃいけないわけでもないからたぶんそれは悪いことだと言うわけではないはずだけど
ともかく後味がいいとはとてもいえない。
攪乱戦法
気分がどうしても沈む日は、沈んだ気分に直球勝負で挑むのではなく、攪乱戦法で行くのがいいかもしれない。
終わってしまったことが胸につかえていたとしても、そのことをずっと見つめ続けているだけでは気分がますます悪くなってしまう。終わったことを考え続けることには何の意味もないのに、考えるのが止められない。そんな時は気分を切り替えるために別のことに手を出すに限る。
自分ができることをやって、それを完成させると自信を取り戻す助けになる。
失敗や事故で気分がぐらついても、それで自分の価値が下がるわけではない。
あの時ああしていたら、こうしていたらと、どんなに考えてももう終わってしまったことはどうしようもない。
もちろん、心にたまる否定的なエネルギーをそのことによって発散することもできるし、湧き上がってくる考えをひたすら抑圧するのも自分の感情を偽っているようで辛い。
だけど、あるところまで来たら、その感情に見切りをつけることはもっと大切だ。
そうでないと、嫌な感情に浸る癖がついてしまう。
失敗や不幸にしばらく浸ったら、見切りをつける。そのタイミングを大切にしよう。
軽やかに生きる秘訣はここにあると思う。
終わってしまったことが胸につかえていたとしても、そのことをずっと見つめ続けているだけでは気分がますます悪くなってしまう。終わったことを考え続けることには何の意味もないのに、考えるのが止められない。そんな時は気分を切り替えるために別のことに手を出すに限る。
自分ができることをやって、それを完成させると自信を取り戻す助けになる。
失敗や事故で気分がぐらついても、それで自分の価値が下がるわけではない。
あの時ああしていたら、こうしていたらと、どんなに考えてももう終わってしまったことはどうしようもない。
もちろん、心にたまる否定的なエネルギーをそのことによって発散することもできるし、湧き上がってくる考えをひたすら抑圧するのも自分の感情を偽っているようで辛い。
だけど、あるところまで来たら、その感情に見切りをつけることはもっと大切だ。
そうでないと、嫌な感情に浸る癖がついてしまう。
失敗や不幸にしばらく浸ったら、見切りをつける。そのタイミングを大切にしよう。
軽やかに生きる秘訣はここにあると思う。
ネガティブ志向
ネガティブな感情に悩んでいると言いながら本当は好きなんじゃないかと思うことがある。
この臓腑がえぐられるような憎しみを捨てたくない(?!)
憎むことで生きるなんて、決していい生き方じゃない。でもそういう感情にすがっているのかもしれない。なぜならそれは少なくとも生き生きした感情だから。
恐ろしいのは何もない無風状態。
自分が生きているのか死んでいるのかさえ分からない場所にいるよりは、ネガティブだろうが何だろうが感情がある方がいい。
分かっている。こんなこと気ちがい沙汰だ。まさに自分が何を言っているのかわかってない。
でも、憎むことが、怒ることが、心地よい時があるのは事実だ。
その感情がなかったら、心に大きな穴が開く(笑)
この臓腑がえぐられるような憎しみを捨てたくない(?!)
憎むことで生きるなんて、決していい生き方じゃない。でもそういう感情にすがっているのかもしれない。なぜならそれは少なくとも生き生きした感情だから。
恐ろしいのは何もない無風状態。
自分が生きているのか死んでいるのかさえ分からない場所にいるよりは、ネガティブだろうが何だろうが感情がある方がいい。
分かっている。こんなこと気ちがい沙汰だ。まさに自分が何を言っているのかわかってない。
でも、憎むことが、怒ることが、心地よい時があるのは事実だ。
その感情がなかったら、心に大きな穴が開く(笑)
「闇」の誘い
幻の谷 [創作]
私が立つのは深い谷
視界を遮る深い霧
霧のベールに浮かぶのは
過去の風景
過ぎ去りし日々に抱いた愛しき思い
現実と幻の境界はかすみ
すべての輪郭が
霧の中に溶けていく
あぁこのままこの谷ですべてを忘れて眠りたい
眠りの精の歌う子守唄を聞きながら
視界を遮る深い霧
霧のベールに浮かぶのは
過去の風景
過ぎ去りし日々に抱いた愛しき思い
現実と幻の境界はかすみ
すべての輪郭が
霧の中に溶けていく
あぁこのままこの谷ですべてを忘れて眠りたい
眠りの精の歌う子守唄を聞きながら
タグ:詩
まともがわからない
自分の立ち位置と言うものは、人間関係の中で初めて見えてくるものだ。社会の中で、家族の中で、職場で、学校で、いるべき立場に立って他人と関わる中で自分が見えてくる。人間関係は自分を映す鏡だ。この鏡を通してでなければ「自分」は見えてこない。
しかし、ここで今私には問題がある。
ほとんどそう言ったリアルな関係がないのだ。「外の世界」と自分の間には分厚クッションがある。そしてその向こうから、まぁかすかな振動程度の物音は聞こえてこないわけじゃない。だけど、そんな物音は自分の考えようによってどんなふうにでも解釈することができる。
まともな社会生活を送るために、「外の世界」の中に身を置いて、それをもとに自分を知ることをは必要なことだ。しかし、今のところ自分を取り巻いている世界は実体のある「外の世界」ではなく、自分の妄想で色づけることのできる「自分の世界」の延長でしかない。これはどういうことかと言うと自分を客観的に見るすべがないと言うことだ。だから今のところ私は「まともがわからない」。
しかし、ここで今私には問題がある。
ほとんどそう言ったリアルな関係がないのだ。「外の世界」と自分の間には分厚クッションがある。そしてその向こうから、まぁかすかな振動程度の物音は聞こえてこないわけじゃない。だけど、そんな物音は自分の考えようによってどんなふうにでも解釈することができる。
まともな社会生活を送るために、「外の世界」の中に身を置いて、それをもとに自分を知ることをは必要なことだ。しかし、今のところ自分を取り巻いている世界は実体のある「外の世界」ではなく、自分の妄想で色づけることのできる「自分の世界」の延長でしかない。これはどういうことかと言うと自分を客観的に見るすべがないと言うことだ。だから今のところ私は「まともがわからない」。
タグ:まともがわからない
異邦人
私は「近所」が苦手だ。
生きている以上、どこかの地域に住んでいることは間違いない。そして、そこに地理的に存在するということは、責任が発生する。その一番大きなものは、毎日のように出るゴミ。このゴミを集める収集場所は住民で管理する。また、地域の美観。これはやはり住民が共同で守るべきとされている。そして、行政からの通知。回覧板なるものにそう有益な情報があったという記憶はほとんどないが、いろいろな「お知らせ」が近所づたいに回ってくる。
近所との関係がどうしても生じてしまうものなら、うまくやっていくに越したことはない。それはわかっているのだが、「近所」と聞いただけで、嫌悪感を覚えてしまうことがある。
それはそこに何とも言えない、「価値観の押し付け」を感じてしまうからだ。
もちろん、その価値観そのものは道徳的なものだ。「人間らしい」と言うことさえできるものだろう。そう認めているにもかかわらず、どうしようもなく自分にとっては不気味でやりきれない。
カミュの書いた「異邦人」と言う小説がある。このタイトルは、母の死に対して「普通の反応」をせず、「太陽が眩しかったから」と言う動機で殺人を犯した主人公を指している。
母の死を悼み悲しむことは、人間的なことだ。そこにあるのは肉親に対する情愛の心であり、このような肉親に対する愛情は美しいものとされている。
そして、社会はそのような感情を当然視し、そのように感じない人間を非人間的なものとして排除する。
「人間はこうあるべき」という言わずもがなの規範。しかし、すべての人がその規範をスムーズに受け入れているわけではないはずだ。その規範があるために、渋々ながら、自分の持つ感情を不自然なものとして押し殺さざるえない、そのような場合もあるはずだ。
もちろん規範自体は悪くない。しかし、それを当然視し、無言のうちにそれを「人間として普通」と呼ばれるものとして押し付けてくる社会には疑問を感じずにはいられない。そして、「近所」とは、それこそ無言のうちに、これまでいわゆる善とされてきたものを振りかざして、それからはみ出してしまう者に容赦ない制裁を与えるもののように感じてしまう。それともこれは、「近所」と言う名前で呼ばれる実体のないものをいたずらに警戒するがゆえに感じるゆがんだ感情なのだろうか
生きている以上、どこかの地域に住んでいることは間違いない。そして、そこに地理的に存在するということは、責任が発生する。その一番大きなものは、毎日のように出るゴミ。このゴミを集める収集場所は住民で管理する。また、地域の美観。これはやはり住民が共同で守るべきとされている。そして、行政からの通知。回覧板なるものにそう有益な情報があったという記憶はほとんどないが、いろいろな「お知らせ」が近所づたいに回ってくる。
近所との関係がどうしても生じてしまうものなら、うまくやっていくに越したことはない。それはわかっているのだが、「近所」と聞いただけで、嫌悪感を覚えてしまうことがある。
それはそこに何とも言えない、「価値観の押し付け」を感じてしまうからだ。
もちろん、その価値観そのものは道徳的なものだ。「人間らしい」と言うことさえできるものだろう。そう認めているにもかかわらず、どうしようもなく自分にとっては不気味でやりきれない。
カミュの書いた「異邦人」と言う小説がある。このタイトルは、母の死に対して「普通の反応」をせず、「太陽が眩しかったから」と言う動機で殺人を犯した主人公を指している。
母の死を悼み悲しむことは、人間的なことだ。そこにあるのは肉親に対する情愛の心であり、このような肉親に対する愛情は美しいものとされている。
そして、社会はそのような感情を当然視し、そのように感じない人間を非人間的なものとして排除する。
「人間はこうあるべき」という言わずもがなの規範。しかし、すべての人がその規範をスムーズに受け入れているわけではないはずだ。その規範があるために、渋々ながら、自分の持つ感情を不自然なものとして押し殺さざるえない、そのような場合もあるはずだ。
もちろん規範自体は悪くない。しかし、それを当然視し、無言のうちにそれを「人間として普通」と呼ばれるものとして押し付けてくる社会には疑問を感じずにはいられない。そして、「近所」とは、それこそ無言のうちに、これまでいわゆる善とされてきたものを振りかざして、それからはみ出してしまう者に容赦ない制裁を与えるもののように感じてしまう。それともこれは、「近所」と言う名前で呼ばれる実体のないものをいたずらに警戒するがゆえに感じるゆがんだ感情なのだろうか
タグ:異邦人
ペシミズム的人間観
非常に気分が悪い。
大体このブログを書くときはそういった気分を吐き出したくなって書くんだから、まあしょうがないと言えばしょうがない。
気分が悪い理由。
それはやはり人間が絡んでいる。
それにしても人間はなんと面倒なものなのだろう?人間関係でいつも気分が悪くなるのに、人間関係をやめることができない。
荒野のような人知れないところに行って、すべての人間関係を断ち切ってしまうことができたら多分傷ついたり、イライラしたりすることはきっとほとんどなくなるんじゃないだろうか?
なんて埒もないことを考えてみるが、現実問題それは不可能だ。
だから、たとえいやであってもだましだましまとわりついてくる人間関係をこなしていくしかない。
もちろん正面からぶつかっていくという手もないわけではない。
でも、定まっているシステムを変えるエネルギーなんか持ち合わせていなし、やってみるだけばからしい。
「智に働けば角が立つ。情に棹せば流される。 意地を通せば窮屈だ。兎角にこの世は住みにくい。」
でも、やっぱり生きていくんだな、これが。。。
大体このブログを書くときはそういった気分を吐き出したくなって書くんだから、まあしょうがないと言えばしょうがない。
気分が悪い理由。
それはやはり人間が絡んでいる。
それにしても人間はなんと面倒なものなのだろう?人間関係でいつも気分が悪くなるのに、人間関係をやめることができない。
荒野のような人知れないところに行って、すべての人間関係を断ち切ってしまうことができたら多分傷ついたり、イライラしたりすることはきっとほとんどなくなるんじゃないだろうか?
なんて埒もないことを考えてみるが、現実問題それは不可能だ。
だから、たとえいやであってもだましだましまとわりついてくる人間関係をこなしていくしかない。
もちろん正面からぶつかっていくという手もないわけではない。
でも、定まっているシステムを変えるエネルギーなんか持ち合わせていなし、やってみるだけばからしい。
「智に働けば角が立つ。情に棹せば流される。 意地を通せば窮屈だ。兎角にこの世は住みにくい。」
でも、やっぱり生きていくんだな、これが。。。
落ち込みのワケ
私の場合精神的な落ち込みと完全に手を切ることはできないようだ。
ずっと調子が良くて、落ち込むことなどもうない、と思うこともある。私は落ち込まない考え方を身に着けた、だからこういう考え方でいけば、絶対大丈夫だ、私は落ち込みとは手を切った、などと思ったこともあった。でも、残念ながら今このように気分が低調なことを考えれば、それは錯覚だったと結論せずにはいられない。
信仰を持てば、落ち込まない人間になる。そういいたいところだが、そうではない。自分は結局どこまで行っても自分で、宗旨替えをしたぐらいで人間性が全く変わってしまうということはない。
もちろん、神を信じてそれまでの悪の道を捨てて、まっとうな生き方をするようになったり、どうしても抜けられなかった中毒から解放される人もいる。私も多分、信仰を持って変わったところが全くないというわけではないと思う。でも、こと落ち込みに関しては、自分でも予期していないようなときに足元をすくわれるというのが現実だ。
そして、その背景にあるのは、人間不信。
たとえクリスチャンが増えたとしても、結局は誰もが自分勝手な正義を振り回してお互いを苦しみ合うという社会の構造は変わらないのではないか、信仰を振りかざしたところで、どれは〇〇主義、という大義名分と変わらず、目先の体制は変わっても結局何も変わらないのではないか、そんな風に思えてきて、信仰を持つことの意義が見えなくなってしまう。
ずっと調子が良くて、落ち込むことなどもうない、と思うこともある。私は落ち込まない考え方を身に着けた、だからこういう考え方でいけば、絶対大丈夫だ、私は落ち込みとは手を切った、などと思ったこともあった。でも、残念ながら今このように気分が低調なことを考えれば、それは錯覚だったと結論せずにはいられない。
信仰を持てば、落ち込まない人間になる。そういいたいところだが、そうではない。自分は結局どこまで行っても自分で、宗旨替えをしたぐらいで人間性が全く変わってしまうということはない。
もちろん、神を信じてそれまでの悪の道を捨てて、まっとうな生き方をするようになったり、どうしても抜けられなかった中毒から解放される人もいる。私も多分、信仰を持って変わったところが全くないというわけではないと思う。でも、こと落ち込みに関しては、自分でも予期していないようなときに足元をすくわれるというのが現実だ。
そして、その背景にあるのは、人間不信。
たとえクリスチャンが増えたとしても、結局は誰もが自分勝手な正義を振り回してお互いを苦しみ合うという社会の構造は変わらないのではないか、信仰を振りかざしたところで、どれは〇〇主義、という大義名分と変わらず、目先の体制は変わっても結局何も変わらないのではないか、そんな風に思えてきて、信仰を持つことの意義が見えなくなってしまう。
ちょうどよい距離感
時々、なんということはないひょうしに落ち込むことがある。そのきっかけは人が軽い気持ちで言った一言だったり、メールに書かれていた一文だったりする。
人とかかわりを持つとき、自分が期待したように相手が反応してくれないと気分が悪くなるし、思ったように会話が弾まないと不快感に襲われる。
そういった意味で人と触れ合うことはいつも危険と隣り合わせだ。誰とも触れ合うことがなければ、受けたくない刺激を受けずに済んで不快になる機会はずっと減る。
私は人間関係についてかなり消極的だが、それは無駄な不快感にさらされたくないという気持ちが強いからだ。
ただ、全く人間関係を断ってしまうと今度は息が詰まってしまう。
予測不可能な人の言動によって心乱されず、同時に自分の内側にばかりこもる閉塞感に襲われることもない適切な距離感。その頃合いを知るにはどれぐらいの時間がかかるんだろう?
人とかかわりを持つとき、自分が期待したように相手が反応してくれないと気分が悪くなるし、思ったように会話が弾まないと不快感に襲われる。
そういった意味で人と触れ合うことはいつも危険と隣り合わせだ。誰とも触れ合うことがなければ、受けたくない刺激を受けずに済んで不快になる機会はずっと減る。
私は人間関係についてかなり消極的だが、それは無駄な不快感にさらされたくないという気持ちが強いからだ。
ただ、全く人間関係を断ってしまうと今度は息が詰まってしまう。
予測不可能な人の言動によって心乱されず、同時に自分の内側にばかりこもる閉塞感に襲われることもない適切な距離感。その頃合いを知るにはどれぐらいの時間がかかるんだろう?