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「闇」の誘い

自分の精神を蝕む考え方に陥ってしまうことがある。そのきっかけは、読んだ本だったり見た映画だったりする。きっかけは非常にはっきりしているけれど、問題は落ちてみて初めて、あぁあれが引き金だったんだと納得できると言うこと。つまり、その引き金を引いてしまうまで、目の前にある本や映画が「引き金」になりうることがわからないため、避けることができないのだ。

そして、いったん落ちてしまうと這い上がるのは時間がかかる。この間などは一か月以上かかってようやくそこから這い出すことができた。

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自分がわからない
あいまいになる他者との境界
性的混乱
破滅と死への志向

そういったものがまことしやかに忍び込み、立っていることさえやっとといった具合だった。

確かにこの世の中は「正」だけで成り立っているわけではない。光があるところに影があるように、必ず「負」の部分を内包している。しかし、どれほど負に焦点を当てたところで、実体のない影だけでは世界が成り立つことはないように、「負」によって何かを構築することはできない。
現実と言う実態を失った思考が突き進む場所は、結局のところ「虚無」以外ない。そこは実態がない世界だから、何物にも拘束されることはない。そこで人は、自分が肉体を持った存在であることを忘れ、往々にしておよそ人間離れした世界に羽ばたき始める。

そこでは殺戮は残酷行為ではなく、
憎しみは美徳であり、
人を貶め踏みにじることは喜びである。

そこで人々は死体を貪り、
汚物を崇め、腐臭に狂喜する。

あるいは、人が純粋に精神だけから成り立っていたなら、それは許されることなのかもしれない。善悪など所詮人間のつまらない常識と忌諱の産物に過ぎないのだから、そのようなものから「解放」され「自由」になって人生を謳歌しようと言うこともできるかもしれない。

しかしそのように考える人が忘れていることがある。それは、人間の肉体や精神はそんな風にできていないと言うことだ。車のガソリンタンクに水を入れても走らないように、人間も生存を脅かす考え方を注入するとき本来あるべき状態を保持することはできない。人間が肉体を持っている以上、人間が生き物である以上、害になるものは害になる。人間が本来持っている姿を逸脱することは自由ではなく、狂気であり、不幸なのだ。そして、それは逸脱してしまった人間自身が何よりもよくわかっていることなのだ。

0916.jpg


人の心には「負」に向かう傾向がある。そしてこの世界は「負」を孕んでいる。現実につかれた時、それを覗き見ることは誰にでもあることだ。しかし、そこにのめり込んではならない。戻って来れるうちに戻って来なくてはならない。この世界に踏みとどまること、そして、現実に生き続けること、光に生きる喜びがそこにはある。自分がいるべき場所にいると言う安息がある。しかし、影の世界にあるのは冷たい死だけなのだ。

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